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近日公開『松江城攻防戦』

国宝松江城は、関ヶ原の戦いの後の1607年~1611年の5年の歳月をかけて、城下町と松江城がつくられました。このころ、天下は徳川のものとはいえ、大阪城には豊臣秀頼、西国には、関ヶ原で西軍についた大名や豊臣恩顧の大名が割拠し緊張状態は続いていた時代です。実際に1615年には、大阪の陣が勃発しています。そのような時代に築城された松江城も、秀吉の数々の城攻めに付き従った堀尾吉晴により、西の備えの要として実践を想定した城となっています。その松江城の軍事拠点としての機能美のすばらしさを知っていただくため、フィクションによるストーリー展開に合わせ、攻め手、守り手の視点で写真を順次更新します。見た方には、有効だと思うものに投票いただき、松江城の特徴について知っていただきます。

※公開までしばらくお待ちください。

松江城攻城戦~プロローグ~

ときは1611年(慶長16年)。天下分け目の大戦「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康の天下となり、天下泰平の世を迎えつつあった時代。されど、大阪城には、豊臣秀吉の世継である「秀頼」がおり、豊臣恩顧のものたちは、その元服の刻を待ちわびていた。そして、西には、大国「毛利」が控えており、緊張感は続いていた時代の話。その毛利方への抑えとして、出雲隠岐24万石という重要な拠点に移封されたのが、「仏の茂助」とも「鬼の茂助」とも言われ、性格は温厚ながら、戦になると勇猛果敢に手柄を立てた戦国武将「堀尾吉晴」であった。秀吉の下で、数々の城攻めを体感した戦国武将の、「機能美の粋」をこらした実践的な要塞「松江城」の完成が目前であった・・・場所を移し、周防の国「岩国城」。毛利家臣にして、出雲の国を治めていた「吉川広家」。広家は、松江城が完成間近と聞きおよび、配下である忍びの一人「雲影」を呼んだ。

広家:雲影。今日はそなたに頼みたきことがある。我らが治めておった出雲の国。新しく入った吉晴が、本拠であった月山の城を移して、松江の地へ戦を意識した実践型の城を築いたようじゃ。われら、 家康殿に弓矢をひくことなど毛頭考えてはおらぬが、秀頼さまも健在の今。まだまだこの先どうなるかわからぬ。されば、その有事のときに立ちはだかるものは、吉晴とその松江城じゃ。やつは、数々の城攻めを体感した武者である。雲影!その方、その松江城の守りのすべてを索偵して参れ。しかし、油断するではないぞ。やつは、甲賀衆や雑賀衆、鉢屋衆など、忍び働きや鉄砲働きに優れたものどもがついておる。
雲影:はっ!されば、早速、出雲の国へ参りまする。


雲影

完成を目前とした松江城では、岩国より間者ありとの情報が吉晴公に伝えられた早朝。尼
子に仕えていた出雲鉢屋衆(賀麻党)の一人「神楽真左衛門」を寝所に呼んだ。

吉晴:周防より我が城の索偵のため、間者が入ったようじゃ。されば、我が城の完成度を知るための良い機会じゃ。あえて、防備を手薄といたし、間者を天守まで誘いこむのじゃ。その道中、敵の動きに耐えうる装備であるか見聞するがよい。
神楽:はっ。されば、我らが城の仕上がり具合を試させていただきまする。大殿には天守最上階にてお待ちくだされ。こうして、松江城での攻め手、守り手による攻防戦は、はじまりを告げた,,,,,,,


神楽真佐衛門